ストレスチェックをして、産まれって大事だよなと思った
会社でとりあえず実施はしときますーとりあえず実施だけーみたいな感じのストレスチェックの連絡がきました。
昨年、毎朝吐いていた前職と比較するともう百点満点のストレスフリー具合ではありますが、項目別にみるとそこそこストレスはあるっぽかったです。
人って、ストレスがないなーと思っているくらいでも何かしらストレスや負荷を受けているもんなんですね。適度なストレスは良いと言うけど、適度なストレスってもしかして体に不調をきたさない程度ってことなのか? と思いました(今ごろ)。
最初の配属先でその人の考え方が決まるような気はしてたけど、最初の会社がストレスフルの職場だと、それが人生であるかのように考え方が決まりそうで怖いですね。そして何より、産まれた家(すなわち、文字通り最初に接する社会)がストレスフルだと、それが人生であると信じ込んでしまうから、怖いなぁと思いました。
旦那さんがマウスピースを使いはじめた
旦那さんが、近所の歯医者さんでマウスピースを作ってきて早1ヶ月くらいが経ちました。
毎日歯ぎしりしてましたが、マウスピースを付け忘れて寝てない日は全く歯ぎしりの音がしなくなりました。
旦那さんも『マウスピースをつけて寝始めるまで全然気づかなかったけど、朝起きた時は慢性的に軽く頭痛がしてたみたい! あと、身体が軽い』と言ってて毎日楽しそうにしてます。
最近は付け忘れそうになると『(明日の朝の)疲れが3倍になるところだった……!』などと言いながら付けてたりします。
お値段1個5千円ちょっと。
高い嗜好品を買ったりリッチなディナーをとるよりも、人生の満足度は上がりそうです。
私も今度 やってみようかな……!
英語の勉強はじめました(進捗1)
単語帳をやっと一周しました。1日100個単語を読むだけでも苦しいものですね。
問題集は、公式が出してるものを2冊ほど買ってみました。時間内に終わらないし 何を言っているのかわからない……。
文法書はほぼ進んでないです。
全然やる気にならないので、TOEICに申し込んでみました。英語が喋れる友人がほしいところです。
「歌」という不幸しか背負い込んでないものとそれらを包括する「音楽」という言葉に込められた理想について(途中)
『歌を歌うときは感情を込めよ』と言ったりする。歌詞の意味を考えたり、ときには作曲者や作詞者のその時の状況にまで考えを巡らせて感情を込めよ、ということを、音楽の授業でやった。「暮れなずむ」の意味を調べてみたり「しばれる体」の意味を教えてもらったり、だ。
歌うことが好きなのでよくカラオケへは行くのだけれど、最近歌いながら『感情を込めて歌うのは下策なのではないか』と思い始めた。感情を込めて歌っているつもりだけれど、所詮は歌。感情を込めたところで 私の歌声を聞いている人に 私の感情が伝わるわけがない。それどころか、感情がこもると声が震えたりテンションが上がりすぎて声が安定しなくなる。これでは、私の伝えたいこの歌の良いところが相手に伝わらないのではないか。
では、どうしたらいいかと考えて思いついたのが、『感情は込めない。代わりに表現の仕方を増やす』である。感情を込めても上手に歌えない、相手に伝えられない。ならば、代わりに表現の方法を増やそう。つまり、様々な歌い方を覚えて、今歌っている歌に1番フィットする歌い方を選ぶのだ。ビブラートやしゃっくりといったことに限らず、多様な歌手の歌い方を真似できるようになったとき、自分の伝えたい(歌っている)歌の1番しっくりくる歌い方ができるのではないか、と予想できる(あくまで予想)。
と、ここまで考えて、なんとも皮肉な話だなと思った。歌の成り立ちとか、人類史における歌の発生なんてのは全く知らないが、きっと何かしらを知らせたり表現するために歌が出来たのだろう(他国の言語とか歌に聞こえたりするし)。伝えたい思いから歌ができたのならば、思いを込めずに歌う方が正確に伝わるというのは、悲しい矛盾である。歌の存在にネガティヴなものしか感じられないけれど、だからこそ 歌やリズム、その他楽器などを含む『音楽』という枠組みが、「音」を「楽」しむという漢字で成り立っていることに、希望を見出さずにはいられない。『音楽』という枠組みには、おそらく先人たちの理想が込められているのかなぁ。
と、ジムのプールで歩きながら考えました。
死んだ犬の夢を見た
死んだ犬の夢を見た。
もう10年近く前に死んだ犬の夢だ。
大事にしてやらなかった後悔と、楽しい時間を過ごしてくれた感謝の気持ちで、いまだに胸がいっぱいになる。
その犬の夢を見る頻度は減ってきているけれど、きっと私はこの犬のことをずっと忘れずに携えて生きて行くんだろう。
道行く飼い犬を見るたびに、かつての私と照らし合わせ続けていくんだ。
人間的に出来上がっておらず優しくなかった自分、思いやりのなかった自分を幾度となく思い出しては苦しい気持ちになるのだけれど、苦しい気持ちになるのならば、私にとってはきっと犬を飼うことに意味があったのだ。もし何も感じていないのならば飼う必要はなかっただろうけれど、あの幼い日々を思い出しては苦しくも穏やかな気持ちになり続けているのならば、私にとって、あの犬を飼う必要があったのだ。
飼い犬が死んだ時に辛いから飼わないんじゃない。飼い犬が死んでも何も辛くないのなら飼う必要はない。
そんな話を思い出しました。
励ましたいのに人に興味がないせいで励ますことができない
人を励ますことは難しい。
ご飯に誘うだとか、『大丈夫?』と声をかけるだとか方法は思いつくけれど、軒並み上手くいった試しがない。
ご飯に誘ってても途中から「励ます」という目的を忘れて食事に集中してしまうし、『大丈夫?』と声をかける方も、その次に何をしてあげたらいいのか、どんな言葉を欲しているのか全然分からなくて気まずくなってしまう。
だから精一杯、気付いてないふりをするのだけれど。気付いてないふりをすることで精一杯なのだけれど。どうしたらいいのだろうか。
人を励ますことが上手い人は本当に上手い。きっと他人をよく観察しているのだろう、要求していることが何なのか すぐ突き止めてしまう。
優しい人になるには人に興味を持たなければならない。興味を持つから人を観察するし、どうすべきか考えるからだ。だけれど、そもそも興味のないものに興味を持つって、どうしたらいいのだろう。