はぴひび

文系/院卒/女/総合職挫折/現在一般事務兼主婦

論的思考を要される文系について

私は理系選択者だ。

国語や英語の方が得意なのに、小・中学生の時に理科が好きだったということと、他の科目に比べて多少数学が面白かったという理由で理系を選択した。

理科系科目も、生物よりも物理の方が面白そうだという理由で、碌に問題を解いたりもせずに理系の物理選択で進学をした。

数Ⅲは難しいし(数Cはまだ授業内容だけで何とか分かった) 物理も意味が分からなかったから、もちろん進学先も限られていて、『もしも文系進学していたら?』ということをたまに思ったりする。10年以上、『もしも文系進学していたら?』ということを考えていたりする。

それはひとえに、"文系進学していれば、もっと偏差値の高い大学へ行けたはずだ" という強い思いがあるせいだ。文系のもっと偏差値の高い大学で、大学の物理の単位取得に苦労することなく、もっとハッピーで充実した学生生活を送れたんじゃないかというかもしれない世界に幻想を抱いている。

文系進学した人たちに『大学で何を勉強したの?』と聞いても、その言葉はどこか『文系で楽な大学生活を送っていたんでショ』というとげのあるニュアンスを含んでしまい、『いやぁ、何を勉強したんでしょうね』と会話を終了させられてしまう始末である。でもそうじゃないのだ。私の中の好奇心の部分がこう言う。単に大学で何が勉強できるのか知りたいだけなのだ。実際に経験した人たちの生の声が聴きたいだけなのだ。しかし私の冷静な部分がこう言う。文系程度ならハッピーで充実した学生生活も余裕で送れたはずだという見下しを持って、そんな話題に取り合ってくれるわけないじゃないか。と。

そんな私ではあるが、最近 現代文の参考書を眺める機会があった。

読むのではない。眺めるだけである。

気になった文章だけをななめ読みし、気になった問題だけをとく。そして、回答が気になった部分の解説だけを眺める。

すると、あることに気付いた。

あんなにもセンスだと思われていた現代文が、ひどく論的に解説されているのだ。

もしかしたら高校の現代文の授業でもきちんと論的に解説されていたのかもしれない。しかし当時のバカな私には、先生のおっしゃっていることが全く理解できていなかった。それほどに、現代文は論的に回答が導き出されていた。論的に導き出された回答しかなかった。論的に回答が導き出されていることを日本人の大半が『そりゃそうだ』と言うかもしれない。しかし私にとっては天と地がひっくり返るほどの大発見だったのだ。

出口汪 現代文講義の実況中継(1) (実況中継シリーズ)

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しかし私はそこでこんなことに気付いた。

論的に考えるということに関しては、理系よりも文系の方が難しいのではないか。

数学は1+1=2というように、数字やその意味が定義されているために、いやでも足したり引いたりしていれば勝手に論的になる。式や文字というツールを使って、いやが応でも論的に議論が進んでいく。

しかし国語というとどうだろうか。国語に限らない。哲学でもいい。扱う言葉はその時代によって意味が変わってしまう上に、式を用いない分、それが論的であるのか論的でないのか、見極めることが極めて難しい。それを扱い、論文を書ける文系出身の人たちって本当はとてもスゴイんじゃないかと。

私は論的な議論が苦手で、数式を用いていても論的でなかったりするくらいにぐだぐだだ。でもだからといって生きることを止めるわけにはいかないし、論理を用いず社会生活を送るなど不可能だろう。論的な思考を得意とする文系の授業を、この年で受けることは夢物語か。

 

 

親の金で文系大学行きてぇ