はぴひび

文系/院卒/女/総合職挫折/現在一般事務兼主婦

「歌」という不幸しか背負い込んでないものとそれらを包括する「音楽」という言葉に込められた理想について(途中)

『歌を歌うときは感情を込めよ』と言ったりする。歌詞の意味を考えたり、ときには作曲者や作詞者のその時の状況にまで考えを巡らせて感情を込めよ、ということを、音楽の授業でやった。「暮れなずむ」の意味を調べてみたり「しばれる体」の意味を教えてもらったり、だ。

 

歌うことが好きなのでよくカラオケへは行くのだけれど、最近歌いながら『感情を込めて歌うのは下策なのではないか』と思い始めた。感情を込めて歌っているつもりだけれど、所詮は歌。感情を込めたところで 私の歌声を聞いている人に 私の感情が伝わるわけがない。それどころか、感情がこもると声が震えたりテンションが上がりすぎて声が安定しなくなる。これでは、私の伝えたいこの歌の良いところが相手に伝わらないのではないか。

 

では、どうしたらいいかと考えて思いついたのが、『感情は込めない。代わりに表現の仕方を増やす』である。感情を込めても上手に歌えない、相手に伝えられない。ならば、代わりに表現の方法を増やそう。つまり、様々な歌い方を覚えて、今歌っている歌に1番フィットする歌い方を選ぶのだ。ビブラートやしゃっくりといったことに限らず、多様な歌手の歌い方を真似できるようになったとき、自分の伝えたい(歌っている)歌の1番しっくりくる歌い方ができるのではないか、と予想できる(あくまで予想)。

 

と、ここまで考えて、なんとも皮肉な話だなと思った。歌の成り立ちとか、人類史における歌の発生なんてのは全く知らないが、きっと何かしらを知らせたり表現するために歌が出来たのだろう(他国の言語とか歌に聞こえたりするし)。伝えたい思いから歌ができたのならば、思いを込めずに歌う方が正確に伝わるというのは、悲しい矛盾である。歌の存在にネガティヴなものしか感じられないけれど、だからこそ 歌やリズム、その他楽器などを含む『音楽』という枠組みが、「音」を「楽」しむという漢字で成り立っていることに、希望を見出さずにはいられない。『音楽』という枠組みには、おそらく先人たちの理想が込められているのかなぁ。

 

 

と、ジムのプールで歩きながら考えました。